HISTORY

毫攝寺の歴史

ORIGIN / 1326

創立の由来

南北朝の初め、丹波国の城主・高橋刑部大輔の次男は出家して清範と名のり、京都・出雲路(現在の上京区)に後青庵を創立しました。その学徳を認められ、後醍醐天皇の勅願所となります。

やがて清範は阿弥陀如来の本願に帰依して乗専と改名し、本願寺第三代・覚如上人(1270〜1351)に師事します。覚如上人は本願寺教団の基礎を固め、「毫攝(ごうしょう)」の別号を持つ高僧でした。

嘉暦元年(1326)、乗専は覚如上人よりその別号「毫攝」を寺号として賜りました。これが毫攝寺のはじまりです。当時から南北朝期の古写本数十冊が今も当寺に伝わり、七百年の法燈を今日に継いでいます。

KOHAMA / 15–16C

小浜御坊と三街道の要衝

TOYOTOMI ERA / 16C

豊臣との縁と苦難

豊臣秀吉は有馬温泉へ向かう途中、茶人千利休を伴って当寺に立ち寄り、境内の井戸水でお茶を喫したと伝わります。三街道が交わる小浜の地は、天下人もたびたび通行する要所でした。

— 試練の記録 —

秀次の宿所となり、焼き討ちの苦難へ

第十一代住職の頃、秀吉の甥・豊臣秀次が小浜を通行する際に当寺を宿所としました。秀次は住職の娘・亀姫を側室に迎えます。しかし天正二十年(1595)、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹を命じられ、亀姫ら妻妾一族は三条河原で処刑されるという悲劇が起こります。

この連座として毫攝寺は伽藍を焼き討ちにされ、寺領も没収されるという未曾有の苦難に見舞われました。それでも当寺は諸国の門信徒の支えにより再興を果たし、念仏の灯を守り続けました。

CHRONOLOGY

毫攝寺のあゆみ

ARCHIVES

小浜宿と毫攝寺の資料

摂津名所図会に描かれた小浜毫攝寺
摂津名所図会に描かれた「小浜 毫攝寺 八ツ松」
宝塚小浜宿の街並み
いまも面影を残す小浜宿の街並み
新聞記事「歴史街道をいく」
新聞紙面でも紹介された「三街道交差する天領の宿駅・小浜」