毫攝寺浄土真宗本願寺派・小浜御坊
南北朝の初め、丹波国の城主・高橋刑部大輔の次男は出家して清範と名のり、京都・出雲路(現在の上京区)に後青庵を創立しました。その学徳を認められ、後醍醐天皇の勅願所となります。
やがて清範は阿弥陀如来の本願に帰依して乗専と改名し、本願寺第三代・覚如上人(1270〜1351)に師事します。覚如上人は本願寺教団の基礎を固め、「毫攝(ごうしょう)」の別号を持つ高僧でした。
嘉暦元年(1326)、乗専は覚如上人よりその別号「毫攝」を寺号として賜りました。これが毫攝寺のはじまりです。当時から南北朝期の古写本数十冊が今も当寺に伝わり、七百年の法燈を今日に継いでいます。

応仁の乱(1467〜1477)ののち、戦乱が続く京都を離れ、明応年間(1492〜1501)、毫攝寺は摂津国の小浜の地へ移転します。この地は有馬街道・西宮街道・京伏見街道の三街道が交わる交通の要衝でした。
寺を中心に門前町が形成され、旅籠・茶屋・大工・左官・酒蔵などが軒を連ねる寺内町(じないまち)が栄えます。江戸時代には「八ツ松」とも呼ばれ親しまれ、三街道を行き交う旅人たちの宿場として小浜宿が賑わいました。

「御坊(ごぼう)」とは、浄土真宗において本山・本願寺から特別の格式を認められた寺院に贈られる称号です。毫攝寺は「小浜御坊」として本願寺との深いつながりを持ち、光明天皇・後柏原天皇・後陽成天皇より御綸旨(ごりんじ)を賜るという格別の栄誉に浴しました。
棟瓦に刻まれた紋や土塀の五本の白い筋(五筋)は、今も当寺の高い格式を物語っています。
豊臣秀吉は有馬温泉へ向かう途中、茶人千利休を伴って当寺に立ち寄り、境内の井戸水でお茶を喫したと伝わります。三街道が交わる小浜の地は、天下人もたびたび通行する要所でした。
第十一代住職の頃、秀吉の甥・豊臣秀次が小浜を通行する際に当寺を宿所としました。秀次は住職の娘・亀姫を側室に迎えます。しかし天正二十年(1595)、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹を命じられ、亀姫ら妻妾一族は三条河原で処刑されるという悲劇が起こります。
この連座として毫攝寺は伽藍を焼き討ちにされ、寺領も没収されるという未曾有の苦難に見舞われました。それでも当寺は諸国の門信徒の支えにより再興を果たし、念仏の灯を守り続けました。
乗専師が本願寺第三代・覚如上人より別号「毫攝」を寺号として賜る。後醍醐天皇の勅願所となる。南北朝期の古写本数十冊が今も当寺に伝わる。
応仁の乱後の戦乱を避け、三街道が交わる摂津小浜へ移転。寺を中心に寺内町が形成され「小浜御坊」として地域の拠点となる。
光明天皇・後柏原天皇・後陽成天皇より御綸旨(勅願所の証)を賜り、朝廷からも認められた格式ある御坊として栄える。
豊臣秀吉と千利休が有馬温泉への途中に立ち寄り、井戸水でお茶を喫す。その後、豊臣秀次が宿所とし住職の娘・亀姫を側室に。秀次の失脚に連座して伽藍焼き討ち・寺領没収の苦難に遭うも再興。
三街道の要衝として旅人が往来する小浜宿が賑わう。「八ツ松」と親しまれた境内の松並木を持つ伽藍が地域の中核として栄える。天領の宿駅として新聞でも記録される。
江戸後期、何者かによる放火により長年親しまれた伽藍が焼失。地域の門信徒が力を合わせて再建に向けて動き出す。
現在も毎月の法座が行われる本堂がこのとき再建された。以来、明治11年(1878)・昭和49年(1974)と修復を重ねてきた。
阪神・淡路大震災により被災。しかし地域の門信徒と本山の支えのもと修復を重ね、平成27年(2015)に復旧を完了。今日も小浜の地に念仏の声が響いている。